<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>可塑性について [4/5]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[016]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>可塑性について [4/5]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：4：<a href=5.htm> 5 </a> 】</font></div><p>　この可塑性の発現によって我々は他者知ではなく、他者による自己知「なぜ彼／彼女は私を知ることができるのだろうか」についての期待・可能性の構成を試みることができるはずである。粘土における可塑性の前提に延長性があるように、その発現に関与し、知るに至る「手」にも確かな延長性がある。しかしここでの延長性とは境界なき空間とは異なり、自己の位相の不可侵性を絶対化するような自明性がなければならない。それは視覚や視点による越境の禁止である。接触と別離の非条件として視覚が含まれるという素朴な知は窓なきものでなければ、触れ合うことができないことを再度確認させる。覗き込むだけで強度自体の取得が許されているものとは、自己の視点域にある構成素集のみである。他者のボリュームという強度は不可知であるが故の擬似知なのである。それは尺度として常に自己を含まなければならないという一点において相愛を約束している。自己愛なき者に他者愛などありえないなどといった通俗命題はその意味で妥当である。特に別離に可塑性がある場合は弾性によって阻まれた愛撫とは異なり、恋と愛が無限に接近する特殊なシークエンスを体験することができる。弾性が発現する別離は受容否定による二重の自己肯定が対象に起こるため、不即関係は常に刹那的で、概念を排撃してしまう。それが構造域に限定されているために、時間論との相克が起こってしまい、肌による肌どおしの愛撫の終わりには満充の未然形が残滓となり『永遠』などといった空概念を産み出しミスリードすることになる。愛撫は原因も結果もない連続史であり、把捉対象には含まれない。それに対して可塑的な別離は上述したように鋳型─鋳物といった痕跡関係が視覚によって概念域へと統合され、自己の含意期待が可能な他者を相即的に不即構成することができる。触覚だけによる可塑性の知は再接触による局所定在を必要とするが、視覚は地平に包囲されつつも別離を超越し、時間位相を論理段階へ還元することができるために、視覚との共働が可能な触覚現象は複合化によって自他関係を相即的不即へと編成し、他者へと臨むエートスを維持することができる。自身の『手』を観ることができる者は自己知の確保によって可塑物に対して自己を含ませることができるのである。愛撫は常に他者否定による自己肯定へと帰結するのに対して、可塑物との接触別離は自己依拠的に相互を補完する。それは我々が知りうる相愛の臨界現象である。相互に他を含み、自己を他へ向けて挿入させるかのように論述可能な可塑性は自他同一に近似しているためである。我々はこの局面全体を誤読してはならない。主体概念や多元論的な他者一元論、未分化に留まる彫刻家は無用である。可塑性は構造契機を視覚によって関係付けられたものであって、再統合したものなどではない。次に可塑性と視覚を再度分化することによって、その限界設定を行ないたい。</p><p>　そこでもう一度、先に作っておいた粘土の窪みに同じ指先を宛てがってみる。自己を密に包み込む他者の先行的存在によって、それは完全概念を想起・産み出す場面かもしれない。文脈なき全包囲的な触覚情報は境界を曖昧にし、自己図式を失ってしまうためである。しかし宛てがった指先を方向性を変えることなく、更に奥へと挿入し、向こう側へと貫いてしまった場合、相愛現象がフェイクであったことに気付くであろう。それは可塑物ではない他者の身体を銃やナイフを用いて打ち抜き、串刺すことと同義である。一見すると貫通の上位によって、それは可塑性に反するものと思われる方が居られるかもしれないが、それは貫通のフェイズによって物性の種が無効になっているためである。従って貫通は可塑性を否定する行為となり、包まれた自己を他者の内奥へと深く押し入れる相互環境化の拡大は可塑性による能動受動批判の無効によって、相愛強度の増大を意味する。&gt;&gt;</p><p>&gt;&gt;<a href=5.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：4：<a href=5.htm> 5 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>