芸術性理論研究室
Metaforce Iconoclasm
[HOME]

[研究レポート目次]

[016]

可塑性について [1/5]
ayanori [高岡 礼典]
【 頁:1: 2 3 4 5

 数枚のドミノを任意の間隔で並べてみる。並んでいる方向へむけて端にある一枚に力を加えれば、一枚目が二枚目を、二枚目が三枚目を押し、力の伝達によりドミノは難なく倒れていくことだろう。これが何百、何千枚となり、複雑なコーナーや段差のある構成になると、力の伝わり方が非均一化してしまい、どんなに美しく並べても最後の一枚まで倒しきることは難しい技になる。そしてドミノ倒しに途中で失敗した場面に遭遇すると多くの方々は「倒れなかった」形式事実のみに着目し、その原因は何だったのだろうかと頭を悩まし、より良い「結果を導くための原因」を探り出すことに苦心する。しかしドミノという遊戯が教えてくれる概念はそれだけではない。例えばドミノを三枚並べ倒し、側面からそれを観察してみれば、作用・干渉は他者の結果を制作するだけのものではないことが見て取れる。自己の能作によって引き起こされた他者の受動が終わると同時に、それは自己の結果の決定因として働き、原因の担体の自己結果・終点は自他共働の平衡点として位相化されることになる。平坦なテーブルの真中に倒壊した三枚のドミノを用意した場合、斜めに傾いている一枚目は同様に傾いている二枚目と、そして二枚目の傾きは水平に倒れている三枚目と、それぞれ過去の働き・自重とのバランスによって自己構成している姿を我々はデッサンすることができる。また三枚目をテーブルの端に置いて倒した場合、それは床へと落下してしまうので、その構図は大きく変わってしまうこととなる。一枚目の傾斜角度に三枚目の結果が関係している点は特に重要である。自己の未来相がさらなる他者の相の影響を受けているかのように見えるこの局面はループなき一回性のものなので、未来からのフィードバックによる現在決定とはいえない。ドミノの倒壊していく様を忠実に描写すれば、倒れ終わっているにもかかわらず、何をもってそのコマを倒れ終わったと定義すればよいのか分からないことに気付くだろう。すべての連鎖過程が漸次的に浸透しているので、一枚のスティルに定義項を見出すことはできず、それをフォワードバックとするわけにもいかない。ここで我々は結果は既にあるものだが、原因は創り見出さなければならない概念・思想でしかない帰結に辿り着く。原因と結果は超越的な関係で並置されている目論見である。そのためそこに可逆性や弁証法は当てはまらない。結果はプロセス全体を決定原因とする構造であり、結果を決定する他者言及的な原因は社会性から要請された「デウス・エクス・マキーナ」でしかないものなのである。それによって無限後退の可能性を擬似的に無効化し、社会的段階を次へ進めるための契機製作に利用しているにすぎない。ドミノ倒しの中に単一的な原因描写が困難である所以は言語記号が静的な個物であるために惹起されるパラドクスである。しかし“ Why ”の意味がスタティックなシニフィアンで表現されることによって我々は自己でありながらも有機的でありうる始点の獲得に成功しているので、それは必要なディレンマといえる。そして上述の帰趨を人類史は黙殺することによって不必要な誤謬の数々を作り出してきたのである。

>>次頁へ進む

【 頁:1: 2 3 4 5

© ayanori.jp


[△PAGE TOP]
[HOME]
[MAP]