<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>定着と剥離 [2/5]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[017]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>定着と剥離 [2/5]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a>：<a href=5.htm> 5 </a> 】</font></div><p>　しかしここで先述した『下方の無』によって疑問が現れる。暗闇を浮遊し続ける手を没世界内存在的に描くことは妥当なのであろうか。前空間(場)的な空を手刀が斬り続ける最中においてすら、我々は自らの足で大地や床を踏み締め、立ち上がっているのではないだろうか。触覚与件の取得期待を集束させている部位が無の態にあろうとも、我々は常に足の裏や身体構造のどこかを確たる非自己と密接させることにより、絶え間ない自己の存在性の創発・現象化に成功しているのではないだろうか。足の指を大地へ深く突き刺すように把持させたまま、無へと手を臨ませる体験は、自己含意可能性の不在を自己含意可能性の先行存在の手中によって導出されたパラドクス、否、誤謬ではないだろうか。ここは無が生と交叉する重要な場面であり、現象化可能態が迎える場面なのか、それとも自明のものなのか判断・吟味するための論理段階でもある。無が生によって約束されたものならば、ふたたび知や性を意志へと還元・再考することが許されるだろう。</p><p>＊</p><p>　我々は少しだけ立ち止まる必要がある。筆を置き、マウスを置き、素足で外へ出てみよう。普段あまり感じることのない土やアスファルトの冷たさ、温かさ、個性的な肌理を足の裏に感じ、感動しながらも、昼間なら太陽を、夜間なら月や星々を、天の定義項として前景化することができるだろう。それが自己を空間内在者として定義する定点として働こうとも、眼によって確かに対象把捉されようとも、触れることを禁止され、決して到達することができない無力が視覚と触覚の非均衡によってディレンマ化する場面は複雑な階梯を経なくとも知るに至る。何かに触れることにより現れる触覚器官が接触不可能性を自律的に現象化できないのならば、この体験は足の裏と地面との共働によって、自己の延長性を予め獲得構成できていたためと考えられる。不完全な身体図式であろうとも、そこから自己の構造概念と環境一般を構成できているはずである。皮膚全体が対象把持しなくとも、そっと触れるだけで体積性を知覚する触覚は部分／全体記述を無効にするため限局的には単一器官である<font size=1>(*)</font>。単一性と構造機能との相互背反的な非対称性が揺るがないのならば、前者の自律性により、延長性の直知が主張できる。そして下方の無と自己の延長性の不即性により、ここにはシステムの原初様相である有生的無性の創発現象の理が潜んでいる。</p><p><font size=1>(*)　しかし対象強度の知覚に関してはこの限りではない。片手と両手によるそれは、それぞれ異なる対象内容を創発している。これに関しては別の論に譲りたい。</font></p><p>　自重を支える任意の身体部位と大地の接触は古典的な二元論の一切から断裂をなぎ払い、相互自律性を保持したまま流通的な架橋を可能とする繋辞を担っているはずである。厳密には「である」の「る」であり、「is」の「s」である。それは存在性の定着であり、画家のフィキサティーフである。自己強度の中心を大地に含意させることにより、表れない自己位格を構成し、まだ見ぬ他者との『関係一般』を創造している。地面は非自己でありながらも、第一触覚与件であるが故に「自己と○○」の『と』を担うのである。ここでは多様性によって超構造化したそれを地(面)と呼ぶことにする。そしてここから我々は『移動』の概念を導出することが可能なはずである。心的本性を前提とした場合、物理的な変位を安易に論じることは許されないのだが、地(面)の理解により、そこへと到達できるような期待が十分に可能である。そこでまず地(面)による存在性の定着から存在の遷移の前提となる剥離を体験・確認したい。</p><p>&gt;&gt;<a href=3.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a>：<a href=5.htm> 5 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>