<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>相愛 [2/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[018]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>相愛 [2/4]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</font></div><p>&gt;&gt; 当然それが系と呼ばれるには議題充足へのエントリーを相互に継続していかなければならない。その継続性による有機的動因を定義項として見出されなければ、自律的な連続性を公理とする者達にとって認識対象になるわけがないためである。そのためコミュニケーションとはツールによってカップリングされるといった固定的な描写は妥当ではないことが導出され、共同制作の最中によってこそ、コミュニケーションが定義されることが分かる。そしてこれは上述した「私と貴方」や写真や雑貨といった構造体を逆説的に首肯するものでもある。二人の間に佇む静物らは経歴を原理として単位記述された刹那、最早それは普遍永続体などではなく、確かに今を形作る進行形の現在者となる。その原理内容が「二人の思い出」ならば、その接続力はなおのこと強化・無謬化されることになるのだが、発話の場合は多少の読解・誤読が必要になる。「私と貴方」の「と」を解消しなければ、「私達」の即現象化はありえない。そこで発話シークエンスを分析してみることにする。</p><p>　再度「私と貴方」と囁いてもらおう。これは呟きのような勝手な独話ではなく、向かい合う対話の配置関係で行なわなければならない。それによって有限者による行為の本質である閉鎖性に定義項が実行即帰属され、観察されることになる。他者を見据えての表現行為は返答を待つことなく、同様に見据える他者の眼差しによって、行為以前に表現として形式定義されているためである。ここには「見つめ合い」を特化する理由がある。公的空間におけるような他者を待ちわびる受動性の強い一方的な活動はオーディエンスやユーザーの登場遅延・後行によって、相互作用に三回性が見出されなければならないのに対し、相思する二人の間における作用は自己視覚による他者眼球の把持によって、相互他者知の期待可能性が構成され、この可能性によって「見つめ合い」における第一表現は一回の作用で意図的行為として同定される。囁かれた者は囁きを受容するのではなく、前場面での自己の可能性をそれによって確認的に断定・確信の記述へと再構成し、「見つめ続ける」ことによって、第一発話者の一回性を妥当化する。そこから見つめられ続ける第一発話者は「私と貴方」という言語記号へ構造的融解への疑念を持ち始める。日常的な場面での発話者ならば、多くがここで賛意の返答を期待するかもしれないが、被発話者による眼差しの継続行為によって、三回的な論理が一回的に守られる。それ以上の段階的分割によって、場面を剔出できなくとも、連続的な「見つめ合い」における一作用は他者の眼差しが自己を証明することによって、相互確信の関係となり、有意味化してしまうのである。ここではその不即的浸透を「ケリュグマ的関係」と呼ぶことにする。</p><p>　そして場面の融和性からくる発話者の疑念は次回の単位構成によって払拭されることになるのだが、ここにもケリュグマ的関係の特殊性がある。日常的なコミュニケーションにおける相互性は必ずしも必要ないのである。ここで第二者による作用を許すのではなく、前回同様、第一者に同一のディスクール「私と貴方」を繰り返し発してもらえば理解できるだろう。二回目の発話も一回目のように場面自体で発話内容が定義されるのだが、第一場面とは異なり、第二場面のディスクールは被定義項でありながらも、第一場面へ追加される定義項を担っている点に留意する必要がある。通常ならば、連続する異なる場面での同一者による同一行為というトートロジーは字義どおり無意味かもしれないが、他者による連続する自己定義下におかれ、かつ連続する他者定義を行ないながらの発話作用は、その内容に関係なく、自己の言葉が他者化され、「見つめ合い」が第三の系を担うことによって更に伝言化し、相思継続の動因となる。つまり現在によって定義された現在における過去が未来を指し示していくことになる。&gt;&gt;</p><p>&gt;&gt;<a href=3.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>