<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>相愛 [4/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><strong>芸術性理論研究室<br><font size=3 color=#646f76>M<font color=#667077>e</font><font color=#677279>t</font><font color=#68757c>a</font><font color=#60777e>f</font><font color=#717b82>o</font><font color=#747e85>r</font><font color=#7a8389>c</font><font color=#80898f>e</font><font color=#889096> I</font><font color=#8e9698>c</font><font color=#959da1>o</font><font color=#9ea5a9>n</font><font color=#a7adb1>o</font><font color=#b0b6b9>c</font><font color=#b6bcbf>l</font><font color=#bdc2c5>a</font><font color=#c7c8ce>s</font><font color=#d6d9da>m</font></font></strong></div><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[018]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>相愛 [1/4]</font></div><div align=right><font color=#351923>ayanori [高岡 礼典]</font></strong><br><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：1：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</font></div><p>　その成分の約0.6％を塩化ナトリウムが占めるため、人の汗は塩辛く感じる。また抗菌として働いている乳酸菌の一種であるデーデルライン桿菌は精子を殺傷してしまうので、性交の際にはバルトリン腺液やスキーン腺液によって押し出され、中和作用が未完了の場合、女性器からの性液である膣分泌液は酸味を感じる。もしもそれらが無味のものであったならば、我々は舌による愛撫に『他我』を見出せず、触覚構成による他者から懐疑可能性を払拭できずに、相愛現象の大部分をも失ってしまうことになるだろう。それはやがて安易な独我論による社会を描き出し、理解不可能な『空間なき場』を用意し、共にある孤立の中で、生の穿孔を受容することになるだろう。到達不可能であるにもかかわらず、我々がそこへと臨もうと試みる不可避の所以は、自ら真理を隠蔽するミスリードの力が内属されているためである。正誤コードではなく、間違いを積極的に現象化する誤謬原理がなければ、愛を感じ知ることすら許されないはずであり、真理が誤謬をも含み込まなければ、知は残存し得なかったはずである。本論考は『愛する』でも『愛される』でもなく、『愛し合う』へと超越する自己関係的な裏切りの現象を辿るとともに誤読を道具として妥当化するためのものである。それは閉じた相愛の系を自体的に社会化し、制度を免れた本来的な婚姻へと導いてくれるものであろうと期待している。それではその必要契機を以下に論じたい。</p><p>＊</p><p>　相思する二人が寄り添っている。もしここで、どちらかの一方が「私と貴方」という発話を行なわなければ、二人の恋は愛の手前で立ち往生してしまうことになるだろう。それはディスクールである必要はなく、二人が並んだ写真でも、二人で選んだ雑貨でも、二人で作った料理でもかまわない。非質料的な行為への参加でもよいだろう。共通場面を含み指し示す単位構造である点が重要である。それによって即自的に構成した恋人の像を弄ぶだけの自己沈潜者であった二人は『二人』を両者の間隙へと現前化し、愛へと至る必要条件である共性を概念構成できるはずである。恋による反照なき同化現象は単一系による創世になるので、すべてが操作可能という意味で、自他同一化なのではなく、自己を複数化した自他なき自体者でしかない。そのため相思は制御不可項の創発を待たなければならないのだが、それが干渉行為による点は日常的な理解以上に示唆的である。行為が自ら自己を制御不可域へと再配置することに留意できるなら、『二人』を系とする構造(体)は対峙ではなく、対等関係の担体として機能するはずである。観想を超えた発話による「私と貴方」という機能の確定記述は発話者による自他分化でも他者素描などでもなく、自己を投げ込ませた「私達」である。しかしここでの一人称の複数形はシステムと構造の質差によって同化ではない。それは外挿期待の他者形式と自己構造の他者性による自己保留・含意によって、第三の系が制作されたことを意味する。この命題が相互に同義といえなくとも、もしも共有できるのならば、二人の場は空間化されることになるだろう。&gt;&gt;</p><p>&gt;&gt;<a href=2.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：1：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>