<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>肌と肌理 [3/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[019]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>肌と肌理 [3/4]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：3：<a href=4.htm> 4 </a> 】</font></div><p>&gt;&gt; ここまでならば諸々の宗教的真理が諭してきた混沌や照明説による前創世場面と同様の帰結になるが、視覚ではなく触覚に着目・限定した世界配置は以下に異なる方向へと進んでいく。それが地(面)の不即性による自己の自発である。闇でのもがきが自己限定的な肯定ならば、闇で佇む静止は自己の否定を超えた無の向こう側への還元であるかのように思える。確かに、そこでの「動かさない手足胴体」は経路を絶たれた不在の自己項であるかのようである。一度開けた扉(可能性)の扉(ディレクトリー)を失うことのように思える。しかし自己構造の存在論を茫漠化している最中においてもなお密接性を断裂などしていないことに気付けるのならば、我々は景色なき闇の中で自己に出会っているはずである。日常の覚醒時において感覚遮断をどれほどに試みようと、触覚与件の不在だけはあり得ない。それは身体構造の背面だけにあるわけではない。以前の拙論<font size=1>(*)</font>では跳躍場面を自己没化として描いたが、空中へと飛び上がりながらも、舌・口内構造を忘れない者は確かな自己との認識契機を獲得可能としている。指先以上の敏感性と繊細で自在な動き、目蓋の内側と眼球との関係内容を超える立体性を身体の内部構造として唯一構成する第一志向対象のひとつである「舌と顎」は視覚把持を免れた純触覚性だけではなく、準絶対普遍的ともいえる所有性によって、自己を自体的に区別する第一的な自己関係器官である。上顎の粘膜、歯の裏側の硬質感、それらを知覚する舌の蠕動は上顎や歯肉に知覚され、能作が受動性を含意することになる。通常志向対象として描かない上顎も自己構造という自明によって、舌の口内遷移はリカージョンを形成すると同時に多様な質感を自己相補することによって、自体的な複雑化に成功している。ここで第一者は一人称を複数化して反省可能な自己を現象する。</p><p><font size=1>(*)　拙論『<a href=../017/index.html>定着と剥離</a>』参照。</font></p><p>　原初的な触覚環境は超越性も超越論性もなく、ただ自己に到達するだけの循環のようである。口内における接触事故は舌の意志と上顎の認識・判断との同一源によって、単なる飛躍的な円環でしかないように思えるが、様々な種類の肌理を遷移することによって現象化した自己豊穣が延長性の直知を指示する点は重要かつ前進的である。この自己触媒的に他者言及なく環境化していく論理過程を理解するには、論述しがたい肌理の形而上学へと踏み込む必要がある。そこで次に我々はテクスチャーへと臨んでいきたい。</p><p>＊＊＊</p><p>　闇に潜伏したまま愛する誰かを愛撫してみる。それはきめ細やかな人の肌かもしれないし、丁寧にグルーミングされた動物の皮毛かもしれない。重曲線や双方向を描くことなく、順目・一定方向のみに同じような箇所を撫で続けたならば、単調な等質性によって触知に単位を感じ取るかもしれない。しかしそれも腕の一動作と対応化された外延でしかなく、触知内容は「程度」などといった消極的な説明しかできないはずである。統語とは異なり、触覚における文脈は成分記述を斥けるため、遷移運動が認められても、何から何へと移ってきたのかの過程把持ができない。初等教育の教材等ををとおして誰もが体験させられるであろう「閉じたコンパス」の一点知覚のディレンマが示唆していたように、触覚与件取得の場面には様々な曖昧さがある。&gt;&gt;</p><p>&gt;&gt;<a href=4.htm>次頁へ進む</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：3：<a href=4.htm> 4 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>