芸術性理論研究室
Metaforce Iconoclasm
[HOME]

[研究レポート目次]

[019]

肌と肌理 [1/4]
ayanori [高岡 礼典]
【 頁:1: 2 3 4

 指先に塗料や接着剤等が付着・硬化していると、それまで滑らかだった対象表面が突然に変質してしまったかのように知覚する。研磨された貴金属も、上質なアート紙も、指先に対し整序された肌理の与件を見せなくなり、無害であった完全性が破綻する。当然、認識のコードは有機的に恒常性を維持するように働くので、一部の美術家やモデラー、研磨作業を本分とするようなカット職人達ならば、認識コードを再編成するか、付着物と指先を対応付ける新しいコードを別個にもうひとつ用意・挿入する等の策に成功し、以前の肌理情報をいとも容易く回復することだろう。触知における相対場面を日常の我々は特視することなく必然であるかのように看過しているかもしれないが、ここには論述しがたい多くの形而上学要求場面が潜んでいる。本論考はそのシークエンスのいくつかを確認することによって、(立体)造形と自責の不文律を剔出し、理論化へと穿孔したい。

 まずは手袋を装着してみよう。革製のような厚手のものがよいだろう。そのまま普段使いなれている何かに触れてみると、対象の質感が分からなくなるばかりか、対象強度までをも変更してしまう。誰もが経験するであろう日常のひとつであるが、ここで最初に留意しなければならないこととは、構成要素間における関係内容の総和である強度が変わっても、構造体の形式知としてのボリュームは、ほぼ一定のまま不変維持される点である。手袋という疑似皮膚によって、自己の硬度・力を得たとしても、自己の延長枠である直知的前提は守られている。構造的境界概念が分割する場面は、無限経験の不可能性を再度学ぶだけではなく、自己の客体化場面でもある。手袋を着けたまま対象に触れ、その肌理や温度が分からなくとも、どこからどこまでがその対象の実的な所有域であるのか知るに至る過程は触覚の含意性による自己の経験をも意味している。その具象は自己の皮膚の知的経験として表すことができる。衣服の布置の曖昧性を地(面)のなさによるものとしての説明が許されるのならば、手袋も同様に脱・拡大身体として描かれるはずである。この肌理の無理解による自己の境界経験というパラドクスは手袋と接する手の表面(皮膚)とシステムが指示する境界(皮膚)とを共に体験する二義性がある。被験者は手袋をとおして質感与件を取得するために対象表面に沿った遷移運動を試みている最中、「手袋をとおして」ではなく、自身の腕全体の運動具合から肌理内容を予見しているに過ぎない。装着している素材自体の形態変化によって指先への弾性刺激があったとしても、肌理内容の素因にすらなっていないはずである。それがどれほどに密着していようとも、指先や手の平は手袋の内側の質感を感じ続け、手袋を非身体項として拒絶する。認識は腕の動きと手袋の連動性から肌理内容を創発するが、指先の拒否によって統覚内容に矛盾を来してしまう。>>

>>次頁へ進む

【 頁:1: 2 3 4

© ayanori.jp


[△PAGE TOP]
[HOME]
[MAP]