<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>オルガスム [5/5]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[020]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>オルガスム [5/5]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a>：5 】</font></div><p>　男性オルガスムの内容構成は、多くの(時間)をこの即自把持に割き求めるが、鑑みると同様のアウトプットする構造論理は他にも(男性)身体一般に見出すことができる。口から肛門までの身体の中心を貫く一本の管が被る災いは大きな例である。排泄や嘔吐も構造的関係を射精と同じくしている。大便も吐瀉物も精液のように管を通過する蠢きを手立てに存在化され、腸や食道を脱・超構造化している。しかしながら排泄／嘔吐にある快／不快は明らかに男性オルガスムからは隔たりのある範疇に位置付けられている。この判断を仮に男性一般のものとするのならば、暗黙裏に済まされている布置の所以には男性オルガスム内容に関する記述可能性が潜んでいるように思えるが、本論考ではここに他感覚への共働要求を見出したい。先にオルガスム一般を感覚域から分化する論拠に意志を据えておいたことを忘れていなければ、これら蠢きの生理には自己目的性<font size=1>(*)</font>を認めざるをえないだろう。便意や吐き気を排泄や嘔吐へと導くには、積極的であるにしろ消極的であるにしろ、自己の身体外部へ確実に送り出そうとする操作は不可欠である。それが排除の欲求であろうと、吐き出されるまでのシークエンス全体は当為的に一義決定されてなどいない。管と異物との関係付けを力の掛け方によって整えなければ、通過内容は大きく変化してしまい異物感も異物化されえないだろう。そして暗に「異物化」と形容した論点先取には、それらを射精から分け隔てる何かがあると述べなければならないような苦渋がある。吐き気や嘔吐がどれほどに不快で苦痛を伴うものであろうと、異物感が創発する最初の場面は、論理的に自己指示でしかないはずである。未文脈化の延長性にある触覚与件は無理解であるため、明文化できないが故に、触知域における異物の発生初期は厳密には異物ではなく、自己の身体強度を部分化した自己指示体である。この自己懐胎における免疫的現象は初めから同定認識できない。通過段階に創発する快／不快は抽象／捨象ではなく、指示体への同定期待と外部感覚への分化要求である。期待とは分化終了後の行為を可能にする助勢であり、ここでようやく男性オルガスムは射精を迎えることに有意味化への可能性がうまれる。</p><p><font size=1>(*)　耐えによる小康も、ひとつの自己=選択にすぎない。</font></p><p>　男性一般がそれを吐き出し、射出したいと思う所以は、それが何であるのか理解するための自己知への欲求、セルフ・レファレンスのためである。自己の身体構造から切り離し、他者域へと放擲するは、『手』以上に視覚(臭覚)への読解要求であり、記述原理の変更による自己深化への策である。分化物という視覚化によって、それらは境界を与えられ、統覚への対象化に成功し、初めて吟味される。その判断内容によって、前場面までのシークエンスに意味がうまれ、同定期待(系)に判断内容(プログラム)が組み込まれ、自己は存続と価値を企て構成していく。男性オルガスムの場合、それは射精によって終了するわけではなく、射出物を精液として同定することにより完成される。手の平かもしれない。女性器からの漏出かもしれない。どこに射出しようと、それを「精液化」しなければ、男性オルガスムは帰結しない。この精液の観察場面は触知(分析)の理解となり、性的絶頂(知的かつ心的な超表現域)と関係化され自己を至上化する。しかしその至上性には一片の排他性すら含まれない。なぜならそれは、どれだけ他者(自己)を愛した自己が存在したのかを知るための相愛強度構成行為なのだから。</p><p align=center><font size=1>METAFORCE ICONOCLASM 2007<br>ayanori [高岡 礼典]</p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a>：5 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>