芸術性理論研究室
Metaforce Iconoclasm
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懐胎と分娩 [1/5]
ayanori [高岡 礼典]
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 自動詞・他動詞の区別なく、出産場面は規制・拘束からの解放として描かれる。本来、子の出生を意味する「免」は、女性の臀部から「人」が出てくる様の図案化であり、「娩」はより厳密に強調表現した文字である。古来より漢字文化に潜在してきた劣位への出産解釈は主意主義者にとっては首肯しやすく、ドイツの倫理学者の言葉をいくつか思い浮かべるかもしれない。孕む者にとっても、生れ出る者にとっても、受精契機は第三者を必要項とし、妊娠期全体は相互に自由を奪い合う。正しくは、母と子が略奪の系に隷従する。母は身体構造を大きく再構成させられることによって行為(価値)規範の大部分を変更せざるを得なくなり、子は生の予科の中で没表現的な振る舞いに悶えの相を見せる。母から血肉の素の提供を受ける子も、腹部の負担に疲労する母も、両者が不自由の契機になりつつ、意志介入不可能な自然形式に捕われ、「奪い合い」は自・他動詞を超え、出産は桎梏のディレンマからの「免れ」を意味することになる。

 臨月を迎え、破水が始まり、陣痛絶頂後の自己干渉を通過すると、紫色の肌を持つ人の頭部が膣口から出現する。多くの場合、このまま半自動的に事は進展せず、助産師が例の『産婆術』を駆使し、母を諭し誘導しつつも、現れた肉塊を両手で力強く引き抜く。無事に首から下の体躯の剔出に成功すると、血まみれの子を洗い流すかのように子宮に残っていた羊水の漏出があり、胎盤が脱落する。後は良く知られた作法に従って臍帯を切除し、緊迫感を切り裂く産声を待つことになる。膣口の修復や産湯といった事後があるものの、母と子の分化によって「免れ」が完了する。重要な問題点は「免れの完了」を「胎盤の脱落」にみるか、「産声による切り裂き」にみるかであり、見落とせない構成要素として「助産師の介助」がある。本論考は以上の点を踏まえ、蠢きから分化への過程を形而上学的に描写し直すことによって、子を認識理解する偽法を確保する。それは制作でも増殖でもなく、ましてや製作などでは決してなく、他者との出会いを意味する。我々は「純粋邂逅」に畏れながらも、芸術家達による安易な僭称へと自制を促したい。

 「作品」は『子』であるかもしれない。しかし「子」は「人」であり、かつ『人』である。この単純な区別を混同する段階契機は懐胎期から既に潜在している。一般的に経血の遅延・滞留によって気付かされる受胎告知も、卵割が進み、臓器類が形成され、心音が瞬き、知覚可能な胎動が始まると、母は腹部の変形とともに受胎理解へと続く闇を開く。現代においては、胎児の自律的な運動描写をもって、他者との出会いとするかもしれない。しかし本論考において、知識先行による形式確保は目的ではなく、現在知覚を批判材料とした認識充足の原初構成過程を把握する点に本論があるため、胎動だけでは満足に値しない。そのため、如何に自律的であろうと、それは「蠢き」以上の意味を有しない。>>

>>次頁へ続く

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