<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>懐胎と分娩 2 [2/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[022]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>懐胎と分娩 2 [2/4]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</font></div><p>&gt;&gt;これは単にリミナリティにおける無限分割の問題にあるのではなく、概念構成されていない境界の種に気付いていないだけのことであろう。懐胎者によってなぞられる腹部の肌は、それ自体がバインド構成を行なっているので、理解延長への豊穣を容易に約束しているかのように思えるが、実際的には前景化せず、黙殺の扱いを受けているかもしれない。輪郭や国境のように線なき世界へ実線を与えることによって文化を構成してきたにもかかわらず、懐胎者の肌すら描けない実態は、我々が一般的に定義している境界とは趣を異にしているためである。通常論じられる構造的境界を確認しておこう。非自己に機能を描写する観察者は、それを傍証としてシステムの存在からメカニズムまでをも外挿・内挿し、システム自体は自己の挙動軌跡を歴史構成することによって、周界・他(者)を描き、選択された自己をプログラム化し、自己の根源を予見する。観察者は行為的境界からシステムへと想いを馳せ、終局にはソリッドな身体髪膚へと至る。システムはもがきあがき侵犯を目論もうとも、他を得ることなく常に纏綿する自己・身体から「私」へと至る。それらの「到達」は行為的にも認識論理的にも超越不可能な絶対の結文であり、それ以上の言及を不可能とする面前にある死を意味する。観察者がなぞるもの、まといつきシステムを苦悩させるもの、両者は同一構造を契機・指示している同音異義であるため、共有項となり、語り合いを可能にしている。それが「境界」であり、それ故に身体パフォーマンス／ジェスチャーが原初的な表現・コミュニケーションツールと呼ばれている。境界とは観察者とシステムの間に許された唯一の接点である。</p><p>　しかし、境界は必ずしも「相互に同一構造である」とは定義できない。観察者にとっての他者の境界と、システムにとっての自己のそれは表裏=関係にあり、厳密には相を構成している形式構造全体をメタ共有しているのであって、シニフィアン的な外延共有にあるわけではない。観察者はどこまでも構造表面をなぞり続け、中心を概念記述することによって他を対象化し、同様にシステムはその裏面に自己の永遠を観想する。表裏は始まりも終わりも欠如した円環の相にある境界ではあるが、観察される境界には「面」のみが必要とされるのに対し、自己記述される境界は「側」がそれに加えられる。観察される構造[A]の周界は形式的に構造[A]の含意定義項となっているのであって、周界の個性は構造[A]の充足域へ関与の許可はない。世界内容は世界内存在の個体内容を規定する当為ではなく、その内部様態を抽象構成する活動において無関係の位置にある。そのため、観察される対象境界は「面」のみが議題となり、観察者自体の相対性は必ずしも問われることはない。またそれ故に、システムにとっての境界は「側」が要求される。例えば、白紙に閉じた円を二つ描いてみる。それら円形をシステム、紙を世界(周界)と見立て、一方の円形を黒く塗りつぶし、もう片方の円形は実線を残したまま内側を切り抜いたとすると、この寓意画は「世界に二つの個体が存在する絵」ではなくなり、「外部と内部に境界をもつ世界に、ひとつの個体が存在する絵」になってしまう。この例えは超越視点による描写なので越権的ではあるが、閉じた線形構造内部が記述の可能性すら禁止された「二重の無」である場合、構造様態がいかに対象性をまとっていようとも、その境界はシステムではなく、世界の帰属になってしまう。たとえそれが観察者へ向けてなんらかの機能を発現させたとしても、「二重の無」の境界によるダイナミズムは単なるハザード、もしくは空想的な世界変動・再構成として映ることだろう。&gt;&gt;</p><p>&gt;&gt;<a href=3.htm>次頁へ続く</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>