芸術性理論研究室
Metaforce Iconoclasm
[HOME]

[研究レポート目次]

[022]

懐胎と分娩 2 [1/4]
ayanori [高岡 礼典]
【 頁:1: 2 3 4

  >> 前論『懐胎と分娩』からの続き。

 

 それ故に我々は、この「内外の同一体」を吟味しなおし、有意味な産出系として再構成しなければならないかのように見える。胎感と孕む母の手の平によって心的構成された肌は、系の並列ではなく複合系であるため、単線形を描いていくテクスト構造には対応しにくいためである。しかし、この計画に迷いがないわけではない。「内外の同一体」をそのまま残した二重の論鋒の先で邂逅する嬰児と、単純化された道程の末尾で待つ嫡子とでは、認識内容に大きな差があるように思える。おそらく前者は越権的な並列記述の中で尊重を垣間見ることが可能であろうが、なんらかの思想的コードを用意しなければ、ひとりの他者の無限複数化が作用の動機や契機を奪い取り、他(者)無理解の没道徳へと至ってしまうであろう。また、後者は凡庸すぎるがために、分娩までの過程記述を把持するとともに、その後の余韻へと向い合う描写論理を構築しなければ、分娩は他(者)との出会いを意味することなく、物化された子を概念化してしまうことであろう。そこで二例にわたった論考を用意したいところだが、以後の本論考では前者を中心にして進めたい。後者の網に捕われても、遍在する無思慮への啓蒙に終止してしまうであろうがためである。それでは、自己の性的感覚や生殖器を愛でるような、子への愛憎を切開する場面群の順列化を始めることにする。

 『私には内があり、外がある。内には側と面があるが、外には面しかない。両者はともに同種の感覚である触覚によって概念現象を果たす対ではあるが、それらは含意関係になく、往還が禁じられている。なぜなら内外を区別するコードは純概念ではなく、肌を契機にして創発し、ふたたび肌を指示するためである。』ここまでの命題群が自ら腹部表面を愛撫する孕む者が辿り着いている第一的な知の形式的様相である。手の平は肌の肌理と蠢きを胎感のそれらと対応化させ、肌を媒体化し、同様に胎感も手の平からのささやかな圧力を対応化させ、肌(内壁)というメディアを知るに至る。直接的には肌の表裏であるにもかかわらず、手の平と胎感は一線で関係化を果たす。その所以は複数ある文脈を懐胎者による単一系によって描くためであるのだが、それならば「内外の同一体」の認識理解も可能であるように思える。しかし二重三重の知覚によって把持されている肌は与件に留まろうとして、かたくなな相を見せ続ける。>>

>>次頁へ続く

【 頁:1: 2 3 4

© ayanori.jp


[△PAGE TOP]
[HOME]
[MAP]