<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>懐胎と分娩 3 [3/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[023]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>懐胎と分娩 3 [3/4]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：3：<a href=4.htm> 4 </a> 】</font></div><p>&gt;&gt;破水以前の痛みの「前触れ」は胎(児)を孕む自重の相にある。膨張から始まる胎感の後期にはトランスホメオスタティックな懐胎史の加速度によって自重が前景化しているはずである。通常、自重の与件化は他(者)を媒介還元しなければならないため、積極的な環境制作といえる。既に「側」という自己の領域化に成功しているため、その環境制作は難なく執り行われていくかのように思えるが、地(面)なき前分娩場面では抱擁とは異なる特殊な理解がある。</p><p>　それは潜みながら音もなく着実に進行し「形」を得ていく。つくられた強度とボリュームは腹部を膨張させ、行為規範へと干渉し、動きによって「原初的な芸術性」を指示するが、どの場面においても介助となっている懐胎者の「手」によって、その問題に気付くことができる。胎(児)が自重を得始めると、環境をすり抜けていく無・自覚な行為構成には安定できなくなり、自己(自重)を差し出し、環境と自己の位置関係から位置価までをも平衡させるように再構成しなければならない。行為から行為へと、状態から状態へと移る際に、自己の強度や延長度を計り直し、構造契機による災いを回避し発現させないようなシステム存続の務めである。殊に状態変位の場面で、自らの手で自らの体躯を支える挙動には重要な意味がある。これを張り出た腹部に重みを感じ、意図した行為遂行を妨げるが故に添えられているものとするのならば、この場面の換言理解は自己言及による自己の部分化を意味する。厳密には自己圧殺を手によって封殺するといった、二重否定による自己肯定行為である。前・分娩者は立位と横臥の移行間においてすら、激しく自己要素に引きずられ、前・自壊の経験に抵抗を試み、天を望む仰向けの際には、自己圧が平衡する訪れない恒常を待ちわびるしか術はないことだろう。そして事実上、俯せが禁止されていることに気付くと、行為領域の縮減によって、ますます前・分娩者は自己去勢を進めなくてはならず、『一なる』身体全体を四肢・部位として捉え直さなくてはならなくなる。これは再度、手足を動物らの尾のように再構成することを実的に意味するが、この行為前提に潜む問題を見落としていなければ、我々は前・分娩者の『重さ』を観想できるはずである。</p><p>　その手は自己の重さを与件化しているが故であり、それまでの挙動線の中心から大きく外れた身体部位を議題としながらも所有描写し、対自措定しているが故であり、その場に留まろうとすることによってシステムに抗おうとするプログラム構造をオペレートの範囲へ組み込み保存しようとする『想う心』の表れである。臍帯をとおして拍動やわずかな動きを可能とする胎(児)であろうと、その重さは孕む者にとっては「寝る子の重さ」に等しい。それは決して先行する重心へ自ら身を寄せることなく、しがみつくこともなく、手足を折り曲げ、球体構造へ近づきながら被触知体となり、世界を拒否する&ldquo;&nbsp;objective niche&nbsp;&rdquo;の中で頑な相を維持し堪え続ける。羊水・子宮越しに伝わる振動のみが他となるものの、それによって寝る子が目覚めることはなく、胎(児)というひとつの全体は懐胎者・子宮というひとつの全体に包まれ物化し続ける。そのため前・分娩者は自己臓器のひとつであるにもかかわらず、「重さ」を感じてしまい、『自己相愛の脱自』は静止から挙動生活へと移行する場面で周辺へと押しやられてしまう。感じないはずの自重の与件化はシステムと構造間の落差を発現してしまうため、選択不可能な行為の可能性を拡張してしまい、苦を孕みやすくなるのだが、前・分娩者の場合は苦の内容構成が一般的描写とは異なり、絶対性を帯び、磊落的な&ldquo;&nbsp;physical ethics&nbsp;&rdquo;への隷従を余儀なくされる。&gt;&gt;</p><p>&gt;&gt;<a href=4.htm>次頁へ続く</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：3：<a href=4.htm> 4 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>