<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>懐胎と分娩 3 [4/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[023]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>懐胎と分娩 3 [4/4]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：4 】</font></div><p>&gt;&gt;通常の自重に『重さ』を感じても、『重い／軽い』とは認識されにくい理由は、重量測定も触覚営為のひとつに含まれているためである。その前提にある自重をゼロ・ポイントへ設定し、価値中立・無価値化しておかなければ、対象重量を外延化する際に妥当な価値判断ができない。その「重さ」は「私」を圧するものなのか、その「重さ」は私によって押し潰されてしまうものなのか、といった認識まで至らなければ、接触行為は不可能に近似する。それ故に前・分娩者の自重知覚は自己客体を積極的に意味する。勃然と現出した半球構造は境界の境界化による明確性とともに、自己を圧する自他同一の反志向力として、その重さを働かせる。この「自他同一」の「自他」は、自己客体であって「自己と他者」ではないことに留意できるのならば、創世以前のひとつの階梯で、予め縮減の力能が内属され、分娩時における周界制作の際に役立つであろうことも期待できる。</p><p>＊＊＊</p><p>　『この重さは私のものでありながら、私に抗う。それは私から捉えられる私であるにもかかわらず、私によって捕われることなく、私は斥けられず、耐えと自壊の間でまどろむ。不即的相即は分ちがたく、色なき内包量を絶対的営為の中で相対化していく。私は為す術もなく、ただこの重さにふるえるばかり。』直接的な重量測定は触覚器官を使わざるをえないため、「重さ」にも含意性がある。腕の中へ引き寄せ、抱き上げる抱擁によって見出される『重さ』は、先行的に内包している自己の『重さ』によって外延化された他者である。他者の「重さ」は非自己として私を含み、抱きつく他者は地(面)喪失とともに重心を投げ出し委ね、相互含意関係にある外延を内包域へと再度還元統合するためのアンチ・フォーカスを企て、「二」が「一」へと溶け合っていく。しかしながら前・分娩者は「二」から「一」ではなく、単一系の複合化であり、地(面)を喪失していく場面もなく、孕まれる(者)は動かざる自律挙動によって己の重心を維持し続ける。そのため、留まる懐胎者にとっての胎感が円環的な自己言及を成していたとしても、動態にある前・分娩者は遅延後行する胎(児)の重さによって引きずられ、また、引きずらなければならない。自己の行方を妨げる自己の存在は胎(児)に重さがあるが故であり、この桎梏関係を字義どおりに維持する腹部表皮は、それが分割不可能であるが故に枷を自己流出のプラトニズムへと帰結させる。前・分娩者は挙動生活の中で、その『重み』を感じれば感じるほどに、自他自体(inter self)の蠢きによって「畏れ」を豊穣化していく。それは他者不在の自己直知を意味しつつも、他性という自己懐疑を孕み、ひとつの狂気構造を構成する。決して制御可能であるわけではなく、システムの描写原理の中心へ胎(児)を設定できるわけでもないが、自己流出体と相互主従を結ぶ「自己他律」とでも呼ぶべき関係は狂気と形容できる。</p><p>　『重さ』と『挙動』によって発生する&ldquo;&nbsp;vibration&nbsp;&rdquo;は没環境的な無音の営みの中で多様な文脈を構成し、自己感応のヌミノーゼ充足を増大させ、自己介在の狂気をも増長させていく。それは胎芽が胎(児)へと至る成長・メタモルフォーゼにともない乖離関係が主従化され、形容しがたい認識内容を孕み掻き乱していく。前・分娩者が朝に喜び、夜に憂えようと、無関係に事は進行し、励起絶頂が訪れる。ここで胎(児)は言葉なく過ぎ去って行くわけではなく、スタティックな自己直知の最大を終わらせるために、ひとつの起爆を残す。卵膜の破裂である。<font size=1>&nbsp;&nbsp;&gt;&gt;&nbsp;次々論『<a href=../025/index.html>懐胎と分娩 4</a>』へ続く。</font></p><p align=center><font size=1>METAFORCE ICONOCLASM 2008<br>ayanori [高岡 礼典]</p><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：4 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>