芸術性理論研究室
Metaforce Iconoclasm
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懐胎と分娩 3 [1/4]
ayanori [高岡 礼典]
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  >> 前論『懐胎と分娩 2』からの続き。

 

 もしもそれが叶うのならば、ひとときをとこしえへと、またたきを畏れへと変え、相愛を単一化する愛の禁忌へと臨むかもしれない。胞衣を脱ぎ捨てることなく、切り裂き剥ぎ取ることもなく、懐胎者は超越する流動に抗い、『自己相愛の脱自』へと嬰児を止住隠蔽し、張り詰めた腹部表面に平衡記述を試みるかもしれない。ふたえの拍動にひとえの世界を羽織らせ、苦に満充を与え、懐胎から免れの価値を奪い取るかもしれない。しかし、望む想いは空へと舞い散り、その場面は訪れてしまう。

 現在系に従うのならば、懐胎者は自身が子を孕んでいる事実を知らない。前場面における性交内容を懐胎と変形した腹部の契機として関係付けるには、あまりにも遠い過去であり、懐胎は子との出会いを意味しない。微細に把持描写した陰茎の蠢きも漏出する精液も『いま、ここ』にはなく、あの時のオルガスムは最早『わたし』をふるわせない。懐胎者は「二人」でも、ましてや「三人」でもなく、ただそこに佇む「ひとり」である。胎(児)による妊娠期は、父から母を奪う脱文脈の策略として描写され、その災いは己を身籠ったが故であることを告げる告白日を待望する全体である。それを直知できない懐胎者は自身をハザードの被害者として描きながらも、無理解から芸術性へと至り、摂理に心を与え、自己から他を奪う。そのため、この次場面に位置する分娩は裏切りを意味することとなる。

 その災いは恩寵でも夷狄でもなく、自律的な内属力の表れである。位階秩序めいたインスピレーションや不意によせてはかえすさすらいの強制などなく、自己の身体を自ら増殖・制作・再構成した静かなる営みの帰趨のひとつでしかない。そのすべてが自己のエレメントであり、自/他化できない自他総和の不可侵である。宿る命に魂なきは、地(面)なきが故であり、胎感は自己客体へと回収・幽閉され、敵なき懐胎者は凛とした姿に無謬の存在美を本有する。臨月へと向かう懐胎者の論理階梯は純然たる自己であり、それは夾雑物などではなく、クロノスからカイロスへと、心から身体へと往還するための臓器のひとつである。ここから始まる分娩は自己分化による他者製作となり、「境界ある内外の同一体」による「世界」に環境を自ら設ける周界製作を意味する。そこに明確な制御性がなくとも、これが裏切りと描写される所以である。この基礎理解を道具化するために、以下に背かれ育む分娩過程の形而上学を詳述していきたい。

>>次頁へ続く

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