<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>肌を切り裂く [2/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[024]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>肌を切り裂く [2/4]</font></strong></div><div align=right><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</font></div><p>&gt;&gt;この如何様にもしがたい「絶対性」があることによって、我々は創世を可能とし、また「創造」を誤読できている。本論考は多くの芸術家達がひた隠す劣等感を触覚共働によって描き直す原初創造の制作・確保である。</p><p>＊</p><p>　漢字文化における「創造」の直訳は『刃物によって傷をつくる』である。なぜそれがコーランで用いられているような『無から有をつくる』行為へと相当・妥当するのであろうか。『傷をつくる』は、それ以前の「刃物をつくる」といった構造再構成と何が異なるのであろうか。この漢字理解・疑義を手掛かりにして、以下に叙述・立論していくが、まずは多くの宗教理論がそこから始めたように、原初に「混沌・カオス」を設けたい。</p><p>　その無は「まったきもの」である。それは全体自体であり、故にエレメントも時間もない。これは無の系が存在しえないことを意味し、没境界・没超越を指示する。一般に没境界は超越を意味するかもしれないが、超えられるエレメントが存在しない無にとって、それは没超越となる。この完全なる同語反復による自己言及は、上述した統覚以前の映像にある。延長性を創造しない視覚のみによる光との関係営為は止住定点不在のため「まったきもの」である。映像を視覚によって分析しても、二次元へと無限後退していくばかりである。そのため「見る者」は「見ながら触れる者」となり、強度やボリュームを映像と対応化させ、色や輪郭をメタライズしていく。この触知による創世場面は最重要な点である。視覚至上による創世描写は「天と地」といった言葉が代表しているように、存在論限定の区別のコードであるが、視触による区別は前景と背景だけではなく、触覚の含意性によって「他(者)と周界と自己」が分化し、無を否定する。ここには神と呼ばれる超越者を制作するトリックと、世界内存在(ハイデガー)が生活世界(フッサール)から受け取らなかったものがあるが、それらの吟味は歴史作業家に任せて、我々は先へ進む。</p><p>　「見ながら触れる者」を分析してみよう。たとえば「グラスを握る者」にとって、そのグラスは前景に位置する対象・他である。周界は「グラスではないもの」として含意化され、背景へと沈潜している。背景には地(面)延長(上)に可触項が遍在し、天上には可触・不可触項がまたたき覆っている<font size=1>(*)</font>。グラスを握る手・腕はグラスの触知と関係付けられ、意志に抗うグラスの存在によって自己となる。無の自由は不自由によって殺される。しかし、接触を軸とした視触認識論は無を永眠させられず、グラスを手放した刹那に、再び無は復活を企ててくる。触覚の現在性によって、それは不可避であり超克できない仕方なさである。そのため我々は触知の絶対性を刻印することになる。</p><p><font size=1>(*)　ここで、海(面)が黙視されている点は批判すべきである。</font></p><p>　手放したグラスは、前場面の掌握によって輪郭に意味が与えられ、対象化へ至ってはいるものの、手放されたことによって光へと舞い戻っている。場面の過去把持が、それを有の可能項へと配置するが、目に映るグラスをもう一度握れる約束は光にはなく、既視の理解は創造をなさない。「それ」が創造の認識論を啓蒙するには、触覚営為の軌跡を「そこ」へと残し、絶対性の痕跡を視覚化しなければならない。それによって既視が撹乱され有機化し、理解は系を構成していく。有ではなく生をつくらなければ、それは創造ではなく、単なる製作に過ぎない。</p><p>＊＊</p><p>　それでは以下に本研究室における原初創造の比喩的な論述を行なう。まずは脱血した(死)体を用意して、その肌表面を観察してみよう。見るだけではなく、直接手の平で愛撫することが大切である。骨格や筋肉、目鼻や生殖器等の隆起によって遷移文脈に豊かな起伏を構成するかもしれないが、なぞる手の平は ... &gt;&gt;<a href=3.htm>次頁へ続く</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：<a href=index.html> 1 </a>：2：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>