<html><head><meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift_JIS"><title>肌を切り裂く [1/4]：芸術性理論研究室 metaforce iconoclasm</title></head><body bgcolor=#FFFFFF background=bg.jpg text=#303030 link=#303030 vlink=#505050><font size=2><a name=top></a><div align=center><strong>芸術性理論研究室<br><font size=3 color=#646f76>M<font color=#667077>e</font><font color=#677279>t</font><font color=#68757c>a</font><font color=#60777e>f</font><font color=#717b82>o</font><font color=#747e85>r</font><font color=#7a8389>c</font><font color=#80898f>e</font><font color=#889096> I</font><font color=#8e9698>c</font><font color=#959da1>o</font><font color=#9ea5a9>n</font><font color=#a7adb1>o</font><font color=#b0b6b9>c</font><font color=#b6bcbf>l</font><font color=#bdc2c5>a</font><font color=#c7c8ce>s</font><font color=#d6d9da>m</font></font></strong></div><div align=center><font size=1>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>&or;<br>[<a href=../index.html>研究レポート目次</a>]<br>&or;<br>[024]</font></div><div><font size=1>─</font><br><strong><font size=3>肌を切り裂く [1/4]</font></div><div align=right><font color=#351923>ayanori [高岡 礼典]</font></strong><br><font size=1>─</div><div align=center>【 頁：1：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</font></div>
<p>　ひずんだ世界への眼差しに映る等質の構図自体には、画面を分割する理由も、要素を剔出し構成する理由もなく、ただの理解なき光でしかない。形ある色、色ある形、それらは確かに映像を組み立てる要素ではあるが、眼球運動を妨げる因にはならず、視線は自由に滑空を継続していく。四等分した球体に二等分した円錐を埋め込んだパースペクティブは、瞳孔によるフォーカスと邂逅するオブジェクト群によって打ち破られ、視覚環境の境界は前理論のまま現場従属となる。一時を遠くへと過ぎやる観察の営みによって消失点の制作に成功しようとも、割れた円錐の頂点を自己へと反転させる印などそこにはなく、見る者は傍観の平衡から動けないまま、我を忘却する。風にゆれて舞い落ちる表情に懐疑させる圧はなく、面前の雑貨が見せる輪郭自体には、認識域に単位化を要求する力はなく、どれだけ豊かな実りが映像内にあろうとも、部分は特化・前景化されず、虚像批判を受け入れなければならない。泡沫なる光の分析は、粘性なき無限逗留に終止して、始まりなき無為へと垂れいく。</p><p>　フォアハンデンな可感的事象と戯れる経験的営為をとおして、自己発生の論理、否、自／他創世の緒へ辿り着くには、自己の前提・先行でも、他者や環境といった超越域による被臨在性でもなく、自由な流動営為によって、不自由な粘性場面をつくることによらなければならない。そのためには意志と身体をもつ自己と他者のみが存在すればよい。ラカン流の父を待たなくとも、子は干渉・接触活動の中で、自己の身体を父へ、環境内営為をファルスもしくはその契機として、存在論から認識論へとシフトしていく。者化を果たしたパワーが不在であっても、母と子は二重の相互主観を第三項として社会を形成し、『ひとり』を育んでいるはずである。</p><p>　光と視覚から始まる創世の認識論は単位着目の理由が不確かなため、なぜ「それ」を見ているのかの説明ができない。「そこ」にある「ペン」や「グラス」をどれだけ注意深く観察しても、網膜・眼球が捉える与件は光に限定され、色や影といった波長の違いがあるものの、焦点はそれらに関係なく跳躍的な連続遷移を継続し、オブジェクトを超えていく。光は視覚の可能／不可能を担う誘因であって、対象構成を理由付け、視覚認識の構築を始める契機ではない。そのため我々は「そこ」へと「手」を伸ばさなければならない。</p><p>　「ペン」を手に取り、「グラス」を握る時に起こる事件の最大の特筆点は、如何に「手」を伸ばし、握りしめようと、それ以上に前進できなくなる不可能性・不自由にある。触知の特性上、それが即単位を構成はしないものの、「何かがある確かさ」は触覚が必須である。対象を持ち上げ、移動しようと、対象自体が所有・本有する自己領域は何者にも侵犯されず奪われない。たとえ対象を破壊し、構造領域を解放したとしても、それは自己領域の喪失であって、「侵犯」は意味されず、接触による「何かがある確かさ」は絶対性を帯びることになる。この ... &gt;&gt;<a href=2.htm>次頁へ続く</a></p><div align=center><font size=1>【 頁：1：<a href=2.htm> 2 </a>：<a href=3.htm> 3 </a>：<a href=4.htm> 4 </a> 】</div><div>─<br>─</div><div align=right>&copy; <a href=../../copy.htm>ayanori.jp</a><br>─<br>─<br>[△<a href=#top>PAGE TOP</a>]<br>[<a href=../../index.html>HOME</a>]<br>[<a href=../../map.htm accesskey=0 directkey=0 nonumber>MAP</a>]</div></font></font></body></html>